阿智神社について


近隣寺内で祀られていた妙見宮を文禄3年(1594)現鎮座地へ遷座
元和6年(1620)に社殿が造営されるのを嚆矢として、拝殿、随身門、絵馬殿と境内建物が備わっていく
明治二年の神仏分離にて「阿智神社」となり、航海の安全を司る宗像三女神を祀る
御祭神の鎮まる本殿は県内でも珍しくなった檜皮葺きの屋根を戴き倉敷市文化財に指定され、令和6年3月、およそ30年ぶりとなる檜皮の葺き替えが完了し現在は美しい社殿を見ることが出来る。
倉敷の発展を見つめてきた美観地区はじめ倉敷中心地の鎮守の杜である。

現在の鶴形山山麓一帯は古く阿知潟と呼ばれる浅い海域であったが高梁川の沖積作用による堆積が進み、天正12(1584)年の宇喜多秀家による新田開発以降広く開拓される。その後、寛永19(1642)年に幕府直轄地(天領)となって以降、当地は物資輸送の一大集散地(倉敷地)として、また、周辺新田地帯の中心地として繁栄する。
城山(現、倉敷アイビースクエア敷地内)に倉敷代官所が置かれて以降、歴代代官の崇敬も厚く、寄進された石灯籠や絵馬などが今も境内随所に残されている。

御祭神と御神徳

主祭神

宗像三女神
むなかたさんじょしん
多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)
多岐都比売命(たぎつひめのみこと)
市寸嶋比売命(いちきしまひめのみこと)

天照大神と素戔嗚尊が誓約(うけい)をした際にお生まれになった三柱の神。海の守り神で「道主貴(みちぬしのむち)」とも称し、交通や交易の安全を司る神とされています。中でも市寸嶋比売命は財宝・美・芸能の神としても信仰されています。

 

御神徳
交通安全 / 海上安全 / 美容健康 / 芸能上達 / 商売繁盛

 

相殿神十九柱

応神天皇(おうじんてんのう)
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
伊邪那美命(いざなみのみこと)
八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)
上筒之男命(うはつつのをのみこと)
中筒之男命(なかつつのをのみこと)
底筒之男命(そこつつのをのみこと)
天照皇大神(あまてらすすめおほかみ)
八十枉津日神(やそまがつひのかみ)
神直日神(かむなほひのかみ)
大直日神(おほなほひのかみ)
素盞嗚尊(すさのをのみこと)
奇稲田姫(くしなだひめ)
神大市比売命(かむおほいちひめのみこと)
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
大己貴命(おほなむちのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
久那斗神(くなどのかみ)
吉備津彦命(きびつひこのみこと)

 

摂末社

荒神社
(こうじんじゃ)

素戔嗚尊(すさのをのみこと)
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
高龗神(たかおかみのかみ)
闇龗神(くらおかみのかみ)

素戔嗚尊の荒魂をお祀りし治水豊饒の神としてまた厄除や病気平癒のご神徳ある神として崇められています。相殿の神は明治43年に近郷より合祀された穀物と水の御祭神です。

 

御神徳
災厄消除 / 病気平癒

 

戎大黒火産霊社
(えびすだいこくほむすひしゃ)

大国主命(おほくにぬしのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)
火産霊神(ほむすひのかみ)

大国主命と事代主命は漁業や農業、商業といった産業の商売繁盛の神様です。火産霊神は火の神竃(台所)の御祭神です。

 

御神徳
商売繁盛 / 鎮火守護

 

城山稲荷社

(しろやまいなりしゃ)

倉稲魂命(うかのみたまのみこと)

現在のアイビースクエア(旧倉敷紡績株式会社)の位置に、かつては城山と呼ばれた丘状地があり、そこにお祀りされていた城山稲荷神社を遷座した社です。

 

御神徳
五穀豊穣 / 商売繁盛

 

菅原神社
(すがわらじんじゃ)

菅原道真公(すがはらみちざねこう)
日本武尊(やまとたけるのみこと)
大物主命(おほものぬしのみこと)
猿田彦神(さるたひこのかみ)

万人に慕われる徳を備えた学問の神として知られる菅原道真公を主祭神としてお祀りしています。相殿の諸神は明治43年に近郷より合祀された郷土の御祭神です。

 

御神徳
学業成就 / 開運厄除

 

倉敷護國神社
(くらしきごこくじんじゃ)

旧倉敷町及び周辺16学区3,416柱の英霊

旧倉敷五学区(倉敷東、倉敷西、大高、万寿、中州)に加え、西阿知、連島、福田、粒江、中庄、帯江、菅生、豊洲、藤戸、庄、茶屋町の計16学区出身の戦歿者の御霊をお祀りしています。

 

御神徳
国家鎮護 / 武運長久

 

阿知の藤と樹勢回復事業

阿知の藤

阿知の藤は、鶴形山公園随一の大棚で「あけぼの藤」という品種です。4月中旬には薄紅色の花房をつけます。樹齢については300から500年と定かではありません。これは、藤が樹齢を算定する「年輪」を形成しないという特徴によるものです。

昭和31年4月1日、岡山県の天然記念物の指定を受けています。藤は今や倉敷市の市花となり、各小学校にも植栽されて注目を浴びることとなりましたが、元となった「阿知の藤」の老化は否めませんでした。

樹勢回復事業

樹勢の衰えがみえはじめた昭和62年以降、さまざまな方法で樹勢の回復を試みてきました。しかし平成13年、長期の日照りにより再び樹勢が著しく衰えたため、氏子有志が「あちの藤応援団」を結成し、樹勢回復処置を県や市に要請しました。

その結果、平成14年より樹木医による蘇生治療が施され、地元の東小学校児童も総合学習の取り組みとして、その手伝いや以後の観察に参加することになり、現在まで続いています。

このように各方面の尽力により一時的に樹勢を回復した阿知の藤でしたが、ここ数年再び樹勢の樹勢の衰えが見えはじめました。そこで、抜本的な治療を行うべくフジ治療の第一人者である塚本樹木医に依頼をし、再び樹勢回復事業を行いました。現在では樹勢が回復し、時期には見事な花を咲かせています。

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